
バギオシティは20世紀のアメリカ軍の休養の場として栄えました。建築家であり、都市開発者でもあるダニエル・バーナンにより設計された当初、居住者数は30,000人という計画でした。しかしながら月日を重ね多くの人が集まるセッションロードでは、若年層が喫茶店やジョリービー、チキンジョイ等のローカル店舗で勤勉に勉強をしている姿や試験の話をしている姿を見ることが出来ます。更にその上、ローカルの大学に通う韓国、日本、アラブ、そしてアフリカの人々を散見する事も出来ます。
国際色豊かな教育都市
多くの学生がバギオにある質が高く他の地域にも劣らないカリキュラムを提供してきた語学学校に集まります。フィリピンの教育を支えてきた長い歴史を誇る語学学校や大学はバギオに位置しています。
1906年、英国の宣教師によってイースターカレッジが建設されました。イースターカレッジは8名のローカル学生に英国信仰の教えや教養を教えるために作られた最初のプライベートスクールとなりました。1909年、イースターカレッジの許可状が発行された後、ブレント国際学校が同宣教師によって設立されました。ブレントはバギオの地が最も理想的な教育都市だという考えから同地に設立され、最初の国際学校となります。1911年、カトリックの宣教師によって10名のローカル学生の教養を育む学校が生まれ、のちに多くの学生を受け入れるセントルイス大学へと成長しました。宣教師の設立した学校とは別に、1908年フィリピンの軍隊員を養成する士官学校がマニラのイントラムルスよりバギオに移管しました。それ以降バギオの地には後を追うように多くの学校が設立されて行きました。
1938年、フィリピンの根本的な大学であるフィリピン大学の一部もバギオに移管されました。戦時中により爆撃などがあったにも関わらず、1961年には同地に大学の主要なシステムの移管に成功しました。2002年には、バギオのキャンパスは同大学でも高い地位を獲得し、コーディレラ地方の学問や研究を支えるようになります。
1948年にはもう一つの最大規模の大学であるバギオ大学が、バギオ市内でも有数の一族により設立されました。同大学は13の建物から成り、年間15,000~20,000人の小学生、高校生、大学生を受け入れています。
これまでのバギオの教育発展の歴史をたどって明らかな事は、上記大学はクリスチャンやカトリック宣教師達の根源的な目的である布教を進めるため、コーディレラ地方全域に英語を広めた事です。
以前、バギオはコーディレラ地方、ルソン北部のローカル人のための教育都市でありました。しかしながら、冷涼な気候はマニラやルソン中部や南部から熱帯の地を嫌う学生にとって最適な環境となりました。彼らはバギオの冷涼な気候だけではなく、多彩なバギオの環境による個々の人格や性格を育む環境を求めて教育都市でのキャリア形成を求めてきました。熟練の技の発達は特に顕著で、芸術に関するコミュニティーは特に活発になり、コーディレラ地方の研究や現地民の発展の礎となり、宗教的組織は自由にその信仰を育て、人権や生活保護等の代弁者たちは声を高らかにバギオで活動しました。今や、外国からの学習者達はスポーツ、キリスト教の意義、そして社会形成の上で関係を持ちうる存在となりました。バギオはまさに、諸外国の人々で交わり、情熱と現代的な考え方を養育する場所となったのです。
英語学習のパイオニア的存在
1990年代後半、大学や教養を育む教育機関とは別で外国の人々のために新たな産業が生まれました。ESLの産業です。
ESL産業の発展以前、英語は一般的にマニラの主要な大学で教えられ、学生の大半は韓国からの宣教師達でしたが、当時は1:1という教育スタイルは流行ではありませんでした。現地での長い滞在の後、当時の教育スタイルであったグループタイプではなく、1:1タイプの英語教育スタイルが最も効果的だという発見をしました。その後、韓国からの宣教師達が先駆者となり、英語学習用の学校やセンターがマニラに設立されるに至ったのです。
マニラで英語学習センターが作られてから間もなくして、韓国からの宣教師達はフィリピン北部を発見するに至り、ついにバギオシティに到達しました。同地で彼らはバギオという地を布教のためだけではなく、ESLスクールとしてのポテンシャルとしても見出す事になりました。
当時はまだ今のような宿泊施設を有した語学学校としては知られません。ESLスクールの大半は英語学習用の学校して作られ、さらにバギオのESLスクールの先駆け的人々はサマーキャンプのサービスを韓国の小団体向けに始めました。これらのようなサービスにより語学学校は規模を拡大し、学校施設を宿泊向けにも形を変えて通年通してサービスを提供するに至りました。
外国人向けの英語学習地域としてセブが選択できるようになったのは、バギオでのESL市場の流行の後に起こりました。
数年が経ち、フィリピンはアジアだけではなく世界中の国に高品質なESLスクールを提供している国として認識されました。韓国人向けだけではなく、今やESLスクールは日本、中国、台湾、タイ、ベトナム、中東、アフリカ、ヨーロッパ、そしてラテンアメリカまでそのサービスは広がっていきました。
バギオは英語の習得に励み、諸外国からのESL学習者により良い教育を出来るようトレーニングされたローカル学生により、英語学習エリアとして形を変えていきました。英語のノンネイティブに関わらず、彼らの語学能力を向上させ、より高いクオリティの英語教育を保証するため様々なサポートを受けてきました。
日常生活の一部分としての英語
アメリカの人々はバギオを今のような形に発展させました。1900年代にアメリカの宣教師によって語学教育されたがゆえに、英語はローカルの人々にとってより自然言語として発達しました。フィリピンの別の都市や街とは違い、バギオでは英語はより広範囲で話される言語です。ローカルの人々は、フィリピンの基礎的な言語であるフィリピノ(諸国ではタガログ語として認識されています)とは別に、最適なコミュニケーションツールとして英語を話す事を好んでいます。

他地域との学生生活の比較
バギオの冷涼な気候を求めてフィリピン各地から人々が来ますが、諸外国の英語を学習する人々にも同じことが言えます。季候とは別に外国からの留学生は田舎ならではの穏やかさや雰囲気、休養の場としてもバギオに魅力を感じています。
フィリピンの別の地区とは違い、バギオは勉強の気を紛らわせる場所ではありません。しかしながら、アクティビティ等のレジャーはシティーの中心で簡単に見つかります。シティーの中心では安全性や危険を感じずに散歩などをする事が出来ます。勉強で疲れた体にはもってこいのリラックスできる場所が数えきれない程あり、ジョギングやエクササイズをする場所には困りません。アウトドアアクティビティーを楽しむ事はいつでも可能です。
バギオはフィリピンの首都であるマニラのように発展したわけではありませんが、同地では様々な学生のニーズを叶える十分な施設やサービスが提供されています。アパートメントの看板はいたるところで散見され、食べ物やお菓子、飲み物などを販売する屋台店は簡単に見つかります。同じように、コンピューターショップ、印刷店、24時間営業するコンビニもあります。更に、海外からの学生が増えたことにより、レストランや食料品販売店は常に流行の食べ物を販売しています。
元々30,000人の居住者のために築き上げられた小さな町であるにも関わらず、これほど多くの学生を受け入れる事が出来るバギオには驚くほどです。学生が自身の野心に情熱を燃やし続けるのであれば、成功者たるキャリアを形成したいのであれば、自身の極めたい学問への勤勉さを失わなければ、バギオはそういった若年層を応援し続け、より良い未来へと導きます。
